安岡教学研究会(設立趣意)
≪安岡教学研究会 設立趣意≫
我が国の現状というものは、国家開闢以来、未曾有の緊切な事態に遭遇している。
政治の堕落、経済の破綻、教育の失墜、環境の破壊、文化の喪失と、国家を支える環境というものが急激に変貌、衰退を遂げているのである。
こうした瀕死の事態、国家存亡の危機に直面している本質的要因とは「人間疎外」、とりわけ「人間性の欠落」に因るものではないだろうか。
人間の本(もと)となるものを失わせる環境は、人物たる者の輩出を妨げ、各界における指導者層の低下をもたらしたのである。
物に本末あり。事に終始あり。
その先後軽重を知れば、すなわち道に近く、
これを誤れば本末転倒となる。
本(もと)立ちて、道自ずから生ず。
その本乱れて末治まるものは無し。
万事万物に内在する本質と、
派生する属性を正しく見極め行うことは、
これ本を務むることにして、その時々の時務と知るべし。
而(しか)してその徳行を為すを以て務めとす。
二十一世紀を目前に控え、政治、経済、教育、環境、文化等、各界の維持、再構築は、そこに携わる人物の輩出を見なければ、希望ある未来は望めない。
人物の育成、指導者層の充実こそ、現状に蔓延する諸問題を一掃する手段を生み出すのである。
政治家である前に、或いは、事業家、教育家である前に、一人の人間であるという本質的な自覚、覚醒が大切なのである。
人間は本来、万物の霊長という尊い資格を有する、人格的存在である。にも拘らず、そうした自己の尊さを忘却し、機械的、動物的で、無味乾燥、低俗化した人間たちで次代を支えようとしている。
知識や技術の学問も、後来、ますます求められるところではあるが、「人間としての学問」を積み、豊かな人間性、優れた人格の確立は、知識、技術の修得以上に急務とすべきところである。
人間は生涯、学びに生きる「学生」である。
学歴に固執せず、学力、即ち、常に学ばんとする力、旺盛なる究学の精神を持たねばならない。
そして、その学びの目的とするところを過たず、正しく認識しておかなければならない。
中国、戦国時代末期の思想家である荀子は、学問の真髄を次のように喝破している。
「夫れ学は通の為に有らざるなり。
窮して苦しまず、憂いて意(こころ)衰えざるが為なり。
禍福終始を知って、惑わざるが為なり。」
学びというものは、より人間的、生活的なもので、常に現実に立脚したものでなければならない。真の学問、修養とは、現実の諸問題に直面した際に活かされる、生きた学びでなければ価値はない。
人間の本質や日常の現実から逸脱したものや、単なる大脳皮質に詰め込んだ、実践を伴わぬ知識の学では、実生活においては無力に等しい。
知行は合一にして分かつことなく、並進すべきものである。
行いを主として知を廃することなく、知を主として行いを廃することなかれ。
鷹山公曰く、為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけりと。
知ることは行うことの始めにして、行うことは知ることの実成である。
しかるに知行は、先後を以て言えば知を先となし、
軽重を以て言えば行を重しとなす。
人は須らく事上に磨き、正しきを学んで、
生活そのものを修養の場と心得、実学とすることである。
蓋し、安岡正篤先生の教学は、「人間如何に生くべきや」という人生最大の命題に対する具体的・実践的な解決策を、至極明瞭に説くものであり、魂のよりどころとすべき、高遠、偉大なる人間学であると考える。
当会は、人物学の権威と称され、我が国、各界の指導者に多大な影響感化を与えた、安岡正篤先生の教学を基調に、さりとて一流一派に拘泥することなく、また、追懐の念、机上の学に止まらず、広く古今東西の先師先達、名士、達人の教えを実践究明し、現実の生活に活かすべき実学へと昇華させることを目的とする。
設立の趣意に賛同する同志、究学の士が、当会の活動によって、人物たる者の素養を修め、国家を支える有力の士となるべきことを切望し、ここに安岡教学研究会を設立する。
平成十年八月三十日
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